清水てつじ事務所
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瀬田川さらえに命をかけた太郎兵衛親子三代の偉業

高島市新旭町深溝の琵琶湖沿いの夕暮原に、藤本太郎兵衛の銅像が建っております。(藤本太郎兵衛親子三代の業績を讃え、平成15年3月に区民の方々の手で顕彰の碑を建立)


その昔、広大な琵琶湖は、太古の昔より、瀬田川しか排水路がなく、その周辺の人々は、たび重なる水害に悩まされてきました。
江戸時代後期、深溝村(現高島市新旭町深溝)の庄屋であった藤本太郎兵衛は、琵琶湖治水に命をかけ、立ち上がりました。
一代目太郎兵衛(直重)は湖辺の村々に、川さらえを呼びかけ奔走し、177ヶ村の取りまとめに尽力し、天明四年(1784年)幕府から瀬田川さらえが許可されました。しかし人夫の統制が取れず、工事は二年で中断となってしまいました。
二代目太郎兵衛(重勝)は寛政三年(1791年)に委任状を持ち、打ち首覚悟で単身江戸へ老中松平越中守定信に、川さらえの許可を得るべく直訴したが、取り上げられませんでした。
そして三代目太郎兵衛(清勝)は、親の意志を継ぎ、瀬田川下流の反対者の説得や、幕府への嘆願を続け、ようやく天保二年(1831年)念願の許可がおり、初代から50年の長い歳月を要した「天保の御救大浚え」と呼ばれる大事業を成し遂げたとのことです。
 ※ この時の竣工届によると、大工27人、人夫延べ約31万人、工事費等が7,654両(約2億5千万円)とされています。
親子三代に渡って、自分達が住んでる村のためだけではなく、多くの村々のために、私財を投げ打って、文字通り命をかけて偉業を成し遂げられたことに、心から感動をいたしました。
滋賀県が、全国でも水害が一番少ないと言われていますが、その治水の先覚者であり、私達が安心して住めるのは、この太郎兵衛親子三代のお陰だと言っても過言ではなく、改めて感謝するとともに、同じ高島に生まれた者として誇りに思う次第です。
 この偉業を後世にも長く伝えていきたいと、強く思います。

                   清水てつじ

| 2008年04月23日 | 活動日記 |